昭和21年広島県立広島工業学校(旧制)最後の入学生、卒業は新制高校第3回皆実高校工業部建築科、現在も残る出汐町旧広島陸軍被服支廠のレンガ造りの倉庫であった。
終戦後の物資不足食糧難・住宅不足の生活で戦前戦中戦後と誰しもが経験し得ない数少ない県工54回の卒業生である。
建築の山村 林先生の卒寿と我々傘寿を共に祝賀するクラス会に中野 二郎(英)先生 因幡 昭冶(体)先生のご臨席を得て9月20日メルパルクに東京・大阪・山口から駆け付けた友を含め16名が集う。3先生とも大変ご壮健でご挨拶の話ぶりも昔と変わらず懐かしさ一杯感謝一杯である。
建設の槌音空高らかに広島の復興、日本の再建を夢に、昭和30年代のオリンピック景気と相まって右肩上がりの波に乗ったものの、二度に亘るオイルショックその後の不景気を体験した我々の生活、人生体験も労苦も忘れ去り、今日は喜びに満ちた顔・顔・顔の談笑、今迄異なる職場にいても再開すれば青春時代のあの頃に戻れるクラスメイト、物忘れや言葉が出なくなった齢ではあるが、一分間スピーチになると口だけは達者で、なかなか順番が廻ってこない。
後期高齢者ならぬ幸期高齢者を目途にケンコウ(健康・県工)一番、元気一杯またの再会を期し、因幡先生の一声で乾杯。 古林 記
|