TOP 同窓会長挨拶 学校長挨拶 母校沿革 母校散策 母校便り 支部・クラス会 会員トピックス 会員の訃報 関連リンク ニュース 学校へ |
原爆慰霊式 (事務局) 事務局へ戻る |
令和6年(2024)8月6日(火) 10時〜 本校原爆犠牲者慰霊式 県工校門横 慰霊碑前 |
令和6年度の原爆犠牲者慰霊式を8月6日(火)に、県工校門横に建立された慰霊碑前で執り行いました。慰霊式の前日からテントや椅子等の準備を始め当日は朝早くから、猛暑の中多くの先生方や生徒会の生徒・野球部員が設営・慰霊式の運営・撤去作業にあたっていただきました。ありがとうございました。 ご遺族様の参列は昨年並みであり高齢化していくご遺族様の健康面が少々心配です。 ご遺族様や教職員・生徒会・野球部を中心に約150名の参加でした。 追悼の言葉は、河野会長・神田学校長・生徒代表が行い、ご遺族様の献花に続いて他の参列者も行いました。 慰霊式の後に、マイクロバスで千田町の旧校舎跡の碑と中島町の慰霊碑を参拝しました。 中島町の慰霊碑参拝のあと、ご遺族様数人から「慈母観音像」(元安川河畔)を参拝したいとの声があり急遽向かいました。今年から8月6日に慰霊祭を行うことが決まり幸いにも平和祈念イベントの真っ最中でした。 |
式典会場準備 |
慰霊碑供花 |
ご遺族様 参列 |
一同黙とう |
追悼の言葉 河野会長 |
追悼の言葉 神田校長先生 |
追悼の言葉 生徒会代表 |
ご遺族様による献花 |
ご遺族様による献花 |
在校生による献花 |
旧千田町校舎跡の碑にて |
中島町 原爆遭難の碑にて供花 |
令和5年(2023)8月6日(日) 10時〜 本校原爆犠牲者慰霊式 県工校門横 慰霊碑前 |
令和5年度の原爆犠牲者慰霊式を8月6日(日)に、県工校門横に建立された慰霊碑前で執り行いました。今年は日曜日であったので金曜日からテントや椅子等の準備を始め当日は朝早くから、猛暑の中多くの先生方や生徒会の生徒・野球部員が設営・慰霊式の運営・撤去作業にあたっていただきました。ありがとうございました。 ご遺族様の参列は昨年並みであり高齢化していくご遺族様の健康面が少々心配です。 日曜日であったため教職員や生徒会・野球部を中心に約100名の参加でした。 追悼の言葉は、河野会長・神田学校長・生徒会長が行い、ご遺族様の献花に続いて他の参列者も行いました。 慰霊式の後に、マイクロバスで千田町の旧校舎跡の碑と中島町の慰霊碑を参拝しました。 中国新聞社の取材があり、西岡誠吾さん(同級生92才)のコメントが翌日8月7日付けの朝刊広島都市圏(19面)「各地で慰霊祭」に掲載されました。 |
会場準備 |
会場準備 |
母校 慰霊碑 |
黙とう 平和の鐘を打鐘 | 河野会長 追悼の辞 | 神田学校長 追悼の辞 |
ご遺族様 献花 |
本校生徒 献花 |
千田町校舎跡の碑 |
原爆遭難の碑 中区中島町 |
原爆遭難の碑 参拝 |
原爆遭難の碑 参拝 |
令和4年(2022)8月6日(金) 10時〜 本校原爆犠牲者追悼式 県工校門横 慰霊碑前 |
本年度も昨年同様、新型コロナウイルス感染症の 関係上、規模を縮小して開催することになりました。ご遺族の方々には、その旨連絡はしております。 本年はマイクロバスで学校から現地慰霊碑まで案内しました。 本年度は、昨年より遺族の方の参列はさらに少なく17名に満たない参加でした。 同窓会員はじめ教職員や生徒会を中心に、約200名くらいの参加で慰霊式は行われました。 追悼の言葉について本年度は、河野同窓会長・吉村学校長・西岡誠吾さん(同級生91才)・生徒会長の4方が行いました。 前日からテントの設営や椅子受付準備など生徒たちが、暑い中を先生方の指導のもと一生懸命に準備作業と後片付けをしてくれました。 生徒たちの行動には頭が下がる思いでいっぱいでした。 |
母校慰霊碑前 |
西岡さん |
献花 |
母校慰霊碑 | 準備してくれた生徒会 |
現地慰霊碑前で西岡さんのお話を聞く |
令和3年(2021)8月6日(金) 10時〜 本校原爆犠牲者追悼式 県工校門横 慰霊碑前 |
本年度も昨年同様、新型コロナウイルス感染症の 関係上、規模を縮小して開催することになりました。ご遺族の方々には、その旨連絡はしております。 毎年マイクロバスで学校から現地慰霊碑まで案内していますが、今年度も現地までは案内しませんでした。 本年度は、昨年より遺族の方の参列はさらに少なく20名に満たない参加でした。 同窓会員はじめ教職員や生徒会を中心に、約200名くらいの参加で慰霊式は行われました。 挨拶は昨年と同様に、吉村校長と生徒代表の2人が行いました。 前日からテントの設営や椅子受付準備など生徒たちが、暑い中を先生方の指導のもと一生懸命に準備作業と後片付けをしてくれました。 生徒たちの行動には頭が下がる思いでいっぱいでした。 |
生徒達がテント・椅子等の設営 |
現地慰霊碑の清掃作業 |
正門横にある慰霊碑 |
吉村学校長追悼の言葉 |
参列者による献花 |
現地の慰霊碑 |
令和2年(2020)8月6日(木) 10時〜 本校原爆犠牲者追悼式 県工校門横 慰霊碑前 |
本年度は新型コロナウイルス感染症の 関係上、規模を縮小して開催することになっています。ご遺族の方々には、その旨連絡はしております。 毎年マイクロバスで学校から現地慰霊碑まで案内していますが、今年度は現地までは案内することにしていません。 その点よろしくお願いいたします。 |
令和元年(2019)8月6日(木) 10時〜 本校原爆犠牲者追悼式 県工校門横 慰霊碑前 |
8月6日は台風の影響でテント張りに最新の注意をした。テントの端は土嚢袋で固定した。生徒会・水球部の生徒達が黙々と準備をしてくれました。 遺族の参列者は年々少なくなってきているようです。学校内に居る生徒や先生方は、10時には、慰霊碑前に整列し慰霊式に参列した。最初に生徒が製作してくれた、平和の鐘を合図に原爆犠牲者に対して1分間の黙祷をした。 引き続き熊野同窓会長の挨拶、中村学校長から追悼の挨拶、当時の同級生(西岡誠吾氏)が友に話しかけるような追悼の言葉が述べられ、続いて生徒会長が生徒を代表して、先輩に対して追悼の言葉を述べ、後に続く自分達は一生懸命に県工をもり立てて行きたいと述べた。 終戦まで歌われていた校歌の演奏つづいて現在の校歌の演奏が演奏された。 その後、遺族の方々・学校職員・同窓生・在校生達がつぎつぎと献花を行い、学校内での慰霊式を終えた。 建物疎開作業で犠牲になった市内中島町の慰霊碑に参拝するため、マイクロバスで学校から現地慰霊碑まで移動し、現地でしばらく同級生の方から当時の状況説明があった。同窓会事務局(吉森)からは、昭和20年8月7日から現地に行かれた岡野先生・中井先生はじめ多くの先生方から聞かされていた状況をお話ししました。 約1時間後に散会した。 写真は後日掲載します。 同窓会事務局 |
ご案内(令和元年 慰霊式)---2019年 |
本年も本校慰霊碑前において原爆犠牲者追悼式を行いまた。ご遺族の方々及び関係者(元教職員・同窓生等) ご参列して頂くようご案内致しました。 なお、7月28日(日)は平和大橋下流にある、慈母観音像前で慰霊式が行われます。当日は、死没者の名前を刻んだ銅板を台座から出して、各学校毎に展示されます(21校)。 令和元年(2019)7月28日(日) 9時〜11時30分 慈母観音像前(広島市中区大手町3丁目 ホテルサンル-ト西側) 令和元年(2019)8月6日(火) 10時〜広島工業高等学校慰霊碑前(広島市南区出汐2-4-75) |
平成30年8月6日(木) 10時〜 本校原爆犠牲者追悼式 県工校門横 慰霊碑前 |
8月6日は朝から暑い日であった。遺族の参列者は年々少なくなってきているようです。学校内に居る生徒や先生方は、10時には、慰霊碑前に整列して慰霊式の開始を待った。最初に生徒が製作してくれた、平和の鐘を合図に原爆犠牲者に対して1分間の黙祷をした。引き続き熊野同窓会長の挨拶、中村学校長から追悼の挨拶、当時の同級生である 西岡氏の追悼の言葉が述べられました。 なお、西岡氏の当時同級生である伊藤さんとの思い出を、紙芝居風にまとめた冊子を、同窓会資料室に保管しています おもな内容を紹介しておきます。 西岡さん有り難うございました。 |
級友との絆 『ピカにやられた 伊藤稜夫くん』 1.入学式 はじめに 私は1945年(昭和20年)春、県立広島工業学校(現県立広島工業高等学校)に入学しました。その時、同じクラス(電気科)だった伊藤稜夫くんと親しくしていました。 4ケ月後、広島のピカ(広島の被爆者は原爆のことをピカまたはピカドンと言う)で親友の伊藤稜夫くんは14歳の若さで原爆の犠牲になりました。 母校創立120周年記念誌に原爆で失った級友への思い出を47ページに亘り綴って頂きましたが、 紙面の都合上全文を紹介することが出来ないため、西岡氏のご了承のもと、ここに一部記載させてい ただき全文は同窓会資料室に展示させていただきます。 |
校門横の慰霊碑 |
献花 |
参列している在校生 |
平成29年8月6日(木) 10時〜 本校原爆犠牲者追悼式 県工校門横 慰霊碑前 |
昨年から生徒会を中心とした多くの生徒諸君が、積極的にかかわった。 炎天下の元、熊野同窓会長・唐立校長・米田氏(同級生)の各氏による追悼の言葉があり、その後ご遺族をはじめ参列者が、慰霊碑に献花をして式を終えた。その後バス1台で中島町の現地慰霊碑に参拝した。 現地では同級生であった、西岡誠吾氏がスケッチを示しながら、詳しく当時のことを語られた。 なお、本年は母校創立120周年をむかえました。昭和17年頃から昭和20年8月まで、母校で高校生活を送られた先輩達のことを思い、特に原爆で犠牲になられた方々の事を思うとき・・・・・現在の在校生達に原爆のことについてシッカリと伝えていき、2度と愚かな戦争があってはならない平和な国であることを、話し受け継いでいかなくてはならないと思った。 |
熊野会長在学中に被爆されています |
遺族の方々献花されました |
中島町現地に参拝 |
平成28年8月6日(木) 10時〜 本校原爆犠牲者追悼式 県工校門横 慰霊碑前 |
8月6日は朝から暑い日であった。遺族の参列者は年々少なくなってきているようです。学校内に居る生徒や先生方は、10時には、慰霊碑前に整列して慰霊式の開始を待った。最初に生徒が製作してくれた、平和の鐘を合図に原爆犠牲者に対して1分間の黙祷をした。引き続き熊野同窓会長の挨拶、唐立学校長から追悼の挨拶、当時の同級生である西岡氏の追悼の言葉が述べられました。 次に旧校歌”千古に茂る宇品山・・・・・・・”の演奏があり引き続き、現在の校歌”おお天地に光を熱を・・・・・・”の曲が流れました。 校歌演奏後は、遺族の方々から慰霊碑前の祭壇に献花を捧げました。先生方・同窓生・生徒達が次々と献花をして、学校内での慰霊式を終えた。 引き続きバスで中島町にある現地の慰霊碑にお参りをした。ここは、多くの1年生が建物疎開作業中に、原子爆弾により犠牲になった所です。当時の同級生である西岡さんが、後日現場を訪れたときの事を思い出しながら、その惨状を語られました。なお、当時の同級生や1・2級先輩の方々も参列されていました。参列者全員が慰霊碑に頭を下げ、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りし、二度と戦争のない世の中になるようにお祈りをしました。 |
熊野同窓会長追悼の挨拶 |
ご遺族の献花 |
生徒製作の平和の鐘をつく生徒 |
当時1年生西岡氏(同級生)のお話し |
校門横にある慰霊碑 | 現地慰霊碑にお参りされたご遺族の方々 | 現地中島にある慰霊碑 |
平成27年の慰霊式は、一中(現国泰寺高校)遺族会から案内がありましたので、7月26日と8月6日の2つの慰霊式が行われました。 原爆死没者ご遺族の方には、取り急ぎご案内を致しましたが行き届かなかったことをお詫び申し上げます。 |
平成27年8月6日(木) 10時〜 本校原爆犠牲者追悼式 県工校門横 慰霊碑前 |
8月4日から慰霊式を行う為、先生方や生徒会を中心とした生徒の皆さんが、テントや椅子の準備、そして校門横の慰霊碑付近の清掃等、中島町の現地慰霊碑の清掃や生花などのお供えをしまた。 8月6日は朝から暑い日であった。遺族の参列者は年々少なくなってきているようです。学校内に居る生徒や先生方は、10時には、慰霊碑前に整列して慰霊式の開始を待った。最初に生徒が製作してくれた、平和の鐘を合図に原爆犠牲者に対して1分間の黙祷をした。引き続き熊野同窓会長の挨拶、和田学校長から追悼の挨拶、当時の同級生である西岡氏の追悼の言葉が述べられました。 次に旧校歌”千古に茂る宇品山・・・・・・・”の演奏があり引き続き、現在の校歌”おお天地に光を熱を・・・・・・”の曲が流れました。 校歌演奏後は、遺族の方々から慰霊碑前の祭壇に献花を捧げました。先生方・同窓生・生徒達が次々と献花をして、学校内での慰霊式を終えた。 引き続きマイクロバス2台に分乗して、中島町にある現地の慰霊碑にお参りをした。ここは、多くの1年生が建物疎開作業中に、原子爆弾により犠牲になった所です。当時の同級生である西岡さんが、後日現場を訪れたときの事を思い出しながら、描いた絵を皆さんに提示して、その惨状を語られました。なお、当時の同級生や1・2級先輩の方々も参列されていました。参列者全員が慰霊碑に頭を下げ、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りし、二度と戦争のない世の中になるようにお祈りをしました。 なお、今年は被爆70年目になりますので、”70年前の記憶”という小冊子を作成して、参列者に配布しました。 式終了後は、暑い中を先生と生徒達がテント・机・椅子などすべての物を片づけていただきました。皆さん大変有り難うございました。、 |
慰霊式全景 | 遺族席 | 献花の列 |
参列した職員と生徒 | 熊野同窓会長 挨拶 | 西岡さん追悼の言葉 |
和田学校長より追悼の 言葉がありました |
70年前の記憶 A4版 36ページの小冊子 内容 ・「あの日の上級生」 ・担任から「保護者宛の手紙」 ・入学時の生徒の作文 |
現地に向かうマイクロバス | 現地慰霊碑前で西岡さん説明 | 慰霊碑に花をたむける・・・ | 同級生と先輩達 |
平成27年7月26日(日) 9時〜 被爆動員学徒合同慰霊祭 大手町3−14 慈母観音像前 |
原爆死没者遺族会の皆様へ 「被爆動員学徒慰霊祭について」・・・一中遺族会 広島市は、被爆70周年という節目の年を迎え、広島市内では原爆死没者の慰霊と被爆者の援護の継承など平和への思いを共有する年として、様々な事業が計画されています。 広島一中原爆死没者遺族会では、これまでずっと7月第4日曜日に、広島国泰寺高校・交友会・鯉城同窓会のご協力のもとに原爆死没者慰霊祭を行っております。 「被爆動員学徒慰霊慈母観音像」とは この慈母観音像は、昭和20年8月6日に広島市内で勤労動員として建物疎開などの作業をしていて被爆死した市内21校の旧制中学校・女学校の生徒の遺族有志が集まり、平和大橋の東詰めサンルートホテル近くの元安川河畔公園に、昭和41年7月に被爆動員学徒慰霊慈母観音像として建立されました。観音像の台座の中に被爆死した職員生徒6000余人のうち名前が判明していた4000余人の名前を学校ごとに銅板に刻み、 観音像台座の中に納められている学校名 広島県立第一中学校 松本商業学校 広島県立商業学校 広島女子商業学校 |
慈母観音像 | 合同慰霊祭 | 献花 | 21校が刻まれています |
本校からは、ご遺族の方・同級生・生徒会・PTA役員・同窓関係者など多数参列されました。 |
平成26年8月6日 10時から |
本年は天候不順で長雨が続き、ほとんど青空を見ることがないような日々でした。8月4・5日には慰霊式を行うべく、先生方や生徒会を中心とした皆さんが、テントや椅子の準備、そして慰霊碑付近の清掃等、雨を想定した準備に苦労しました。 8月6日は予想通り雨の中で、慰霊式が行われました。雨のため例年になく参列者が少ないようでした。先生方や生徒達そして遺族の方々や関係の同窓生等およそ250名程度の参列者であった。熊野同窓会長・和田学校長・米田さん(同級生)のあいさつが終わり、旧校歌と現在の校歌を演奏しました。続いて参列者の方々による献花を行い、慰霊式を終えました。その後はマイクロバス(1台)で、中島町の現地慰霊碑に参拝しました。 |
母校正門横の慰霊碑 | 献花の列 | 新く生徒が製作した折ずる棟 |
今年見つかった、建物疎開作業中に被爆した生徒が身につけていた制服 | 西岡さん(同級)が当時の話をされました | 米田さん(同級)現地の慰霊碑に参拝 |
平成25年8月6日 10時から |
本年も遺族の方を始め多くの方々の参列のもとに、学校の正門横にある慰霊碑前で慰霊式が行なわれました。 熊野同窓会長・和田学校長・西岡さん(当時同級生)から追悼の言葉があり、参列者の皆さんが慰霊碑に顕花をされました。 式典では、故中井先生の指導のもとで製作された、平和の鐘が生徒の手でつかれ、当時の校歌と現在の校歌が演奏されました。 式典終了後は学校で用意したバスで、中島にある現地慰霊碑に参拝して、当時の同級生から3年生の方々のお話を聞くことが出来ました。暑い中ご苦労様でした。 |
現地の慰霊碑 |
同級生の米田氏から、当時のお話・・・・ |
平成24年8月6日 10時から |
中島の現地慰霊碑前で・・・・・ | 遺族の方から慰霊碑にお花を・・・・ | 校内に居る生徒たちも、参列した |
昨年から生徒会を中心とした多くの生徒諸君が、積極的にかかわった。 炎天下の元、熊野同窓会長・田口校長・米田氏(同級生)の各氏による追悼の言葉があり、その後ご遺族をはじめ参列者が、慰霊碑に献花をして式を終えた。その後マイクロバス2台で中島町の現地慰霊碑に参拝した。 現地では同級生であった、西岡誠吾氏がスケッチを示しながら、詳しく語られた。 |
||
熊野会長当時3年生 | 同級生の馬場氏 |
平成23年8月6日 10時から |
本年度の慰霊式準備作業は、生徒会を中心とした多くの生徒諸君が、積極的にかかわった。 炎天下の元、熊野同窓会長・田口校長・西岡氏(同級生)の各氏による追悼の言葉があり、その後ご遺族をはじめ参列者が、慰霊碑に献花をして式を終えた。その後マイクロバス2台で中島町の現地慰霊碑に参拝した。 現地では同級生であった、西岡誠吾氏がスケッチを示しながら、先生と生徒たちで現地に慰霊碑(木製)を建立した事を、詳しく語られた。 |
熊野会長追悼の言葉 | ご遺族様の献花 | 現地慰霊碑にお参り |
平成22年8月6日 10時から |
今年は、大変な猛暑が続きました。その中において例年のように前日から教職員と生徒達がテントの設営から式場の設営など、汗を流しながら準備をしてくれました。 田口学校長・熊野同窓会長・同級生の米田氏の追悼の言葉があり、旧校歌・新校歌のテープ演奏の後、参列者の方々による献花がありました。約250名の参列者でした。 その後、中島町までマイクロバスで参拝しました。 現地では、同級生の西岡氏が当時1年生の制服を着た姿を書いてくださり、服装の様子をこまかく説明していただきました。 |
||
当時の服装の説明をする西岡氏 |
平成21年8月6日 10時から |
本年は、雨が多くこの日も曇りがちちの一日であった。 例年のように前日から教職員と生徒達がテントの設営から式場の設営など、汗を流しながら準備をしてくれました。 田口学校長・熊野同窓会長・同級生の西岡氏の追悼の言葉があり、旧校歌・新校歌のテープ演奏の後、参列者の方々による献花がありました。 約250名の参列者でした。 その後、中島町までマイクロバスで参拝しました。 |
平成20年8月6日 |
例年通り10時から、なぜか毎年この日は大変暑く太陽がギラギラと照りつける中で慰霊式が行われました。、前日から教職員と生徒達がテントの設営から式場の設営など、汗を流しながら準備をしてくれました。種田学校長・熊野同窓会長・同級生の西岡氏の追悼の言葉があり、旧校歌・新校歌のテープ演奏の後、参列者の方々による献花がありました。 式典終了後は、マイクロバス2台で現地中島町まで案内をしました。そこでは、当時の事を同級生等の西岡・米田・馬場氏・・・・・・が遺族の方や関係者の方に説明をしていただきました。 当時の時代背景や、在校生たちの置かれていた状況など、現在では想像もつかないことばかりです。 この慰霊式を通して、教職員や在校生達は出来るだけ多く参加して、我々の先輩である当時の県工生達の現実を勉強して欲しいと思います。 |
平成19年8月6日 被爆された生徒・先生がいた、中島町に建立されている慰被 |
平成18年8月6日 式終了後は、中島町の現地慰霊碑まで 参列者は約180名でした。同級生の西岡誠吾さんの挨拶 |
平成17年8月6日 |
60回目の慰霊式が10時から母校慰霊碑前において、関係者約200名の参列のもとに行われました。黙祷に続き熊野同窓会長・寺崎学校長・同級生米田さんの追悼の言葉があり、当時の校歌と現在の新しい校歌の演奏がありました。参列者全員の献花のあと、マイクロバスで被爆現地である中島町に参列しました。 なお、現地において昭和20年8月8・9日に救助活動をされた岡野先生のお話を詳しく聞くことができました。同級生の米田・西岡さんからも同様に、お話を行くことができました。ご遺族の方も熱心に質問されていた姿が印象的でした。今後は被爆の様子等を同窓会室に残したいと思います。 岡野先生・米田さん |
平成16年8月6日参拝される松前先生 | 平成15年8月6日 現地で松前元校長・米田氏 | 平成14年8月6日 当時を語り合う松前先生・橋本先生(担任)・馬場さん(同級生 |